2021/06/02 #woofer887
相変わらず周回遅れでお送りしています。毎回書こうとか思ってないし、今回も今日矢花さんのブログだな〜先週運命について語ってたな〜書くか〜くらいの軽い気持ちです。軽いけど安くはないです。よろしくお願いします。
ではほんへ↓↓↓↓
- 運命の話
- キューを置くなら
1.運命の話
あなたは運命を信じますか?と聞かれたら、信じたいです、と答えるような捻くれた人間だ、私は。
そもそも信じる信じない以前に、運命ってあるのだろうか。存在するのだろうか。
だって物事の結果というのは全て、その人の選択や努力の上に成り立っている。例えば矢花さんで言うと、お仕事に行かなかったり、何度もオーディションを受けたのはご自身の選択で、楽器を極めたのは努力、結果として今の場所に流れ着いている。それは、運命じゃなくてちゃんと自分の足で歩いてきた一つの居場所だ。ぽかりと急に落ちてきたんじゃなくて、歩いて馴らしている場所だ。それを運命みたいに、たまたま、みたいに言ってしまうのは少し悲しい。
運命と調べると、人の意識を超えた出来事、みたいな言葉が並ぶ。運命の出会いとか、そこで命を落とす運命だったんだとか、よく使われる言葉だ。
でも、その人に出会うまでの道のりで、一度も自分の意志が無い選択なんてあったのだろうか。命を落とす場所にいたことは、小さな選択の結果だったんじゃないだろうか。
人生は小さな選択によって成り立っていて、その選択をする人格ってのも多分、小さな選択によって作られてる。
だから、運命なんてないんじゃないかな、とも思う。
でも、私は運命を信じたい。存在してもしなくてもいいのだ。"運命"という言葉に全て託したい。
出会いも別れも嬉しいことも悲しいことも、運命のせいにしてしまいたいから。
自分に都合よく運命を捉えるのは自由だから、人の数だけ運命が存在するんだなって思う。
2.キューを置くなら
過去に戻りたい、と言う感情は、良いことにも悪いことにも等しく訪れる。
良いことで言うと、楽しかったあの時期をやり直したい、繰り返したい、と言う感情。悪いことで言うと、後悔を塗り替えしたい、と言う感情。
語源であるレコードで言うと、前者の意味合いなのかなと思う。何度も嬉しかったことを繰り返して、同じようになぞっていく。でもじゃあ、同じことを同じように経験したとして、それが一度目に勝るとは思えない。終わってしまうからこその煌めきや、新鮮だからこその色彩の強さみたいなものが必ずある。キューを置いてやり直したとて、記憶がぼやけて書き換えられるだけだ。だから、戻りたい、と思える過去を一つ持っているだけでいいのかな、と思う。
次に後者についてだけど、これはもう、ほんとによくある。私という人間は完璧主義者とまではいかないけど、こうしておけばよかった、と一日に両手を超えるくらいには考える。例えば書類を家に忘れたとき、上司へ言葉を返して変な顔をされたとき、友達への返しで笑いが取れなかったとき、自分のことを話しすぎてしまったとき、勉強をせずに寝てしまったとき。ミスをする自分に価値はないと感じて、やり直したい、と思うことがよくある。でも、好きなバンドが「失敗も後悔もしないように でもそれは果たして僕なんだろうか」と歌っていたから少し思い直して、あぁでもやっぱりやり直したいなと堂々巡りが始まる。
それこそ人はわかっていても悩んでしまう生き物で、結局答えなんかは出ないのだ。
だから、応えるとすれば
「キューを置きたい場所はたくさんあるけど、暫くはこのまま歩いてみるよ」
って感じです。
あと選択の話をたくさんしたけど、同じバンドの歌詞で「目の前の分かれ道の選択に悩みこそすれど、それを不正解と言ってしまう選択こそ最も不正解なのだ」と言う歌詞が凄く好き。一度人生を救われた。
今の私がどう歩くかで過去の私の選択をいくらでも正解にできる。正解と思える。
だからやっぱり暫くはこのまま歩いてみようと思います。