適当に生きています

思考と声の間の話/SixTONES/SnowMan(7MEN侍)

愛を繋ぐこと

ミュージックソンお疲れ様でした!!

 

贔屓目なしにしても、SixTONESの真っ直ぐで熱い、気持ちの芯のところが刺さるような24時間でした。仕事で途中参加だったりちょいちょい寝てしまったけど、この時間を通して感じたことはたくさんあったな〜と思います。

でも人間、忘れてしまうものだから!この気持ちのまま、決意表明みたいな感じで言葉にしようとブログを書き始めてます。

 

「意識するのはタダ」自分を変えられるのは自分しかいないし、だからこそいつでも変われると思わされました!それは普段の生活でもそう。眠たい朝、やる気の起きない夜、一歩目を踏み出すのはタダだし、踏み出せるのは自分しかないから、自分で自分を変えてあげよう。

自分が今立ってるのって点字ブロックの上だなあ、ちょっとどけておこう。この間困ってそうな人に声をかけられなかったから、次いたら勇気を出してみよう。そうやって意識することはタダだから、すぐに行動に移せなくても、少しずつ変わっていこうって、ジェシーからのメッセージだったなって思う。

 

視覚障害者だからって、」これは私がよく思うこと。今回のミュージックソンでは特に、北斗や樹が言葉にしてくれてたかな〜と感じます。例えば人より少し背が低い、人より少し力が弱い、人より少し周りから影響を受けやすい。そんな"特徴"と一緒には出来ないけれど、誰しも多少のハンデを背負っていて、それを誰かに助けてもらうと嬉しいよね、自分もこのバトンを誰かに伝えようと思うよね、とそのくらいフランクな気持ちで良いんだなって改めて思った。これは白状ガールのドラマを見ていても改めて考えさせられた!五感の一つが無いってとても重たい事実ではあるけど、そこで線を引くのは違うのかなって。

同じ括りにする部分と、それぞれが生きやすいように区別するところ。その境目にきっちり線を引くのは難しいから、曖昧なところは優しさでカバーできたらいいなってラジオを通して思いました。

 

「今できることからやろう」白状を持った方じゃなくとも、知らない人に声をかけるってめちゃくちゃハードル高いなって思う人、たくさんいると思う。私も電車の中で辛そうに立ってるおばあちゃんおじいちゃんやマタニティマークを付けてる方に「席、どうぞ。」って声をかけるのにも、もしかしたら次の駅で降りちゃうかもとか、弱いと思うなって怒らせちゃったらどうしようとか考えるし、何度も頭の中で声のトーンとか言い方をシュミレーションしてやっと声に出せる。もちろん勇気が出なかったりその人が降りていったりして声に出せないときもある。

でも白状の音がしたら道を開けるとか、点字ブロックの上に立たないとか物を置かないとか、そういう事って自分ひとりで完結するんですよね!声をかけて助けることももちろん素敵なことだけど、自分ができることからひとつひとつ。それも立派な愛だと思うから、胸を張っていいことだよね。

声をかけるのも、助けてあげよう!って気持ちじゃなくて、困ってるかどうかの状況確認、コミュニケーションって思えば少しハードルは低くなるな、ってのは今回の一番の気付きでもあった!

 

「言葉だけじゃなくて、心で、態度で」ニュアンスの言葉になってしまったけど、言葉って凄く難しい。例えば"嫌だ"って音は同じでも、相手を拒絶する意味にも捉えられるし、今後も付き合っていくための提案とも捉えられるし、身内でのジョークにも捉えられる。その人の声色とか前後の会話の流れとかで意味が違ってくる。だからそれは信頼関係とか想像力が凄く大切になるな〜って改めて思いました!小説を読めってよく言うけど、今思うと文字だけで風景や心情を想像したり、はたまた今の自分に一番合った言葉のチョイスができるようになる、それをエンターテイメントとして学べる。確かに最適な教材なんだよね。

だから言葉だけのメッセージとかSNS、ネットワークは余計に難しいなと感じる今日このごろ。

でも、うまく言葉を紡げなくても、震える声とか詰まる感じで伝わる熱量もある。最後の慎太郎のメッセージにそう思わされました。言葉も大事だけど、音や視線でそれはちゃんと補える。

 

「愛や笑顔をもらう、あげる」最後に樹や高地が言ってくれた、たくさんもらってるって言葉。これは本当にそのままお返ししたい!!

私はSixTONESのファンになってから、SixTONESの6人やスタッフさんに、凄く愛されてるなあと感じることが多々あるよ。それは多分、恋人に向けるものや家族、友人に向けるものとは少し違うだろうけど、同じ愛だなと感じる。想ってくれること、注いでくれていること、実感してます。そして愛してくれたり笑顔にしてくれた分、自分の中に溜まった愛とか笑顔を発出できる。それはSixTONESのことを知らない誰かにもきっと届いてる。そうやって繋がって行くんだなって思いました。

愛とお金は等価交換できないけれど、今回の募金と言うのはもらった愛が形になったもの。理由が設備増加のためでも、SixTONESがパーソナリティだからでも、その根っこは全部同じで愛なんだよね。人は誰しも愛もヘイトも持っている。綺麗事と言われようとも、その愛だけ循環すれば世界は平和になるのになって、心からそう思った。

 

最後に、

愛とか好きとか多用するとチープになりそうだけど、これからも愛し合って一緒に生きていこうなって、そう思う。

ありがとうSixTONES、ありがとうミュージックソン!

 

SixTONESの夢見た甲子園

青い空に白い雲。

照りつける太陽にも負けないくらいの瑞々しい声援が空気を震わせ、背中を押された選手たちが真っ直ぐに白線を蹴り上げる。

春夏と行われる高校野球の甲子園とは違い、その競技は東京の渋谷区、環境を考慮した屋内にて行われた。

 

ウェーブけん玉、と言う競技をご存知だろうか。

ルールとして決まっているのは以下の4点だ。

・参加者は1チーム5〜10名であること。

・制限時間は一人2秒×人数分。

・けん玉のサイズはけん玉協会認定のものであること。

・手が離れてしまった場合、玉が皿に乗らなかった場合は大幅にも減点(しかし掴むのは反則)。

勝敗はけん玉の成功はもちろん、ウェーブの美しさによって判断される。減点式であり、持ち点は1チーム10点。そこから一人一人の形、シンクロ度、スピードなどが判定されて勝敗が決定される。

 

そう、つまりウェーブけん玉と言うのは皿に載せて当たり前。

そこからウェーブの美しさを競い合い、全国を目指すのである。

 

しかし今回の優勝候補であったSixTONESはまさかの失敗に終わってしまった。ウェーブの美しさを競うフィールドにまで行けなかったということだ。

メンバーが本日2021/10/30にジャニーズWEBの公式ブログにて、それぞれ謝罪文を載せていた。それぞれが自身を責める口調であり、悔しさが伺える。そこでこのブログでは敗因を考察していこうと思う。

 

・指が離れてしまった点

まずは高地→ジェシー、そして京本→森本間で指が離れてしまっていた。ウェーブけん玉という競技は6人の気持ちを一つにし、ウェーブの波動を徐々に増幅させていくことでけん玉の玉を飛ばすものである。しかし最初の高地→ジェシー間で指が離れてしまったことにより初速が下がり、そしてラストである京本→森本間にて指が離れてしまったことにより波動が減衰してしまっていた。

ジェシー、森本両名が立て直そうと二人分ないし六人分力んでしまったため、玉の軌道が練習の際と変わってしまい、失敗してしまったと推測する。

・チューニング不足。

前項にも記載したとおり、ウェーブけん玉とは6人の波動を増幅していくことが非常に大切である。つまりそれぞれの周波数を同調させることが最重要事項なのだ。その精密さから、誰か一人が欠けてしまう、交代してしまうだけで玉の軌道が変わってしまう。そのため補欠要員がいないことで有名な競技なのだ。

この周波数を同調させる行為をチューニングと呼ぶのだが、個人での仕事が忙しかったこの時期、チューニングにかける時間が短くなってしまったのではないだろうか。京本がブログでも言ったとおり、6人揃っての練習不足が伺える。

例年12月に行われる甲子園の時期が早まったことも要因しているだろう。

 

上記が主だった敗因だと思うが、それに起因した緊張感なども不調に繋がってしまっていたと思う。

しかし、メンバーのブログの通り彼らはリベンジに燃えている。反省点を洗い出し、泣きながら話し合うなど、悔しい思いをしたからこそ次のステップが待っているのだ。谷の底は確かに暗く、絶望的な風景が広がっているだろう。けれどそこから見上げる狭い青空は、6人がまた飛び立つために十分なほど澄んでいるはずだ。

 

ひとりのSixTONESファン、そしてウェーブけん玉のファンとして、次なるSixTONESの成長に期待する。

ジェシーという人間

希望を煮詰めたような人だなと思う。

実際突き詰めていくとそれだけじゃない、人間らしい部分もあるのだけど、信じてみたいな、着いていきたいな、と思えるグループの圧倒的センター。

 

たまに、アイドルを推していて信じられなくなってしまう時があります。

ファンには見せない面があるのは当たり前だけど、ファンに見せている部分が偽りであってほしくない、みたいな。ファン同士の感じ方の違いを知って、私にはこう見えているのにあなたにはこう見えているのか、とアイドルのこともわからなくなったり。どこまでが本心で、どこまでがビジネスなんだろうと疑心暗鬼になってしまうとき、ジェシーを見ると自分に見えているものを信じていようと思える。ありがとう。

 

 

ジェシーのポジティブの根源って底抜けの明るさじゃなく、一種の諦めと許容なんじゃないかな、と感じる。

本人も言ってたけど、次にデビューすると言われ続けてきたジュニア時代だったのだろう。流れに身を任せて、けれど自分の立ってる場所を見失わず、必ず進むべき方向がわかってる。なかなかできることじゃない。本当にすごいと思う。自ら茨の道を掻き分けるのではなく、濁流の中で乗るべき波を見極める力。それを持っていたのではなくて身に付けた人なんだろう。だからこそグループのセンターに立っている大きな意味みたいなものや、私達なんかにはわからないくらいのメンバーの信頼があるんだろうな。

 

 

SixTONESは箱推しだけど、ジェシーは特にライブで目が離せなくなる。それは、ここが彼の生きる場所なんだなと感じるからだ。

舞台やステージには色々ある。演技をする場でもあるし、曲を奏でる場でもあるし、人を笑わせる場でもあるし、歌を歌う場でもある。けれどジェシーには、人の感情をエネルギーにして、それを表現し輝きを返すようなライブの場所が一番似合ってると思う。人の感情を還元する能力に長けている。そんなにステージ向きの人間に出会ったことないよ。

 

 

ジェシーのギャグも大好きだし、それによる笑いも凄く好き。テレビで乱発しているところを見ると最近のお気に入りなんだな〜と思うけど、直近の生放送で連発してたところとかひとりでたくさん笑わせてもらいました。

 

 

笑顔でいればどうにかなるって、起きたことはどうしようもないからせめて笑顔でいようよって意味だとも思うんですよね。まあ完全に深読みしすぎなんですけど。

ポジティブでいることで逃げ場をなくしてくれる人に助けられる場面も多々ある訳で。頑張らなきゃいけないときとか、辛くてもやらなきゃいけないときとか。

そういうときに、強い言葉を持っている人が一人でもいるのが、すごく素敵だなと思います。

 

 

眩いばかりの太陽も、熱すぎるあまりに黒いところがちゃんとある。

そう言う人間を私は、希望として一番信じられるのです。

いつもありがとう。

 

お誕生日おめでとうございます。

2021/06/02 #woofer887

相変わらず周回遅れでお送りしています。毎回書こうとか思ってないし、今回も今日矢花さんのブログだな〜先週運命について語ってたな〜書くか〜くらいの軽い気持ちです。軽いけど安くはないです。よろしくお願いします。

 

 

ではほんへ↓↓↓↓

  1. 運命の話
  2. キューを置くなら

 

1.運命の話

あなたは運命を信じますか?と聞かれたら、信じたいです、と答えるような捻くれた人間だ、私は。

そもそも信じる信じない以前に、運命ってあるのだろうか。存在するのだろうか。

だって物事の結果というのは全て、その人の選択や努力の上に成り立っている。例えば矢花さんで言うと、お仕事に行かなかったり、何度もオーディションを受けたのはご自身の選択で、楽器を極めたのは努力、結果として今の場所に流れ着いている。それは、運命じゃなくてちゃんと自分の足で歩いてきた一つの居場所だ。ぽかりと急に落ちてきたんじゃなくて、歩いて馴らしている場所だ。それを運命みたいに、たまたま、みたいに言ってしまうのは少し悲しい。

運命と調べると、人の意識を超えた出来事、みたいな言葉が並ぶ。運命の出会いとか、そこで命を落とす運命だったんだとか、よく使われる言葉だ。

でも、その人に出会うまでの道のりで、一度も自分の意志が無い選択なんてあったのだろうか。命を落とす場所にいたことは、小さな選択の結果だったんじゃないだろうか。

人生は小さな選択によって成り立っていて、その選択をする人格ってのも多分、小さな選択によって作られてる。

だから、運命なんてないんじゃないかな、とも思う。

 

でも、私は運命を信じたい。存在してもしなくてもいいのだ。"運命"という言葉に全て託したい。

出会いも別れも嬉しいことも悲しいことも、運命のせいにしてしまいたいから。

自分に都合よく運命を捉えるのは自由だから、人の数だけ運命が存在するんだなって思う。

 

 

 

2.キューを置くなら

過去に戻りたい、と言う感情は、良いことにも悪いことにも等しく訪れる。

良いことで言うと、楽しかったあの時期をやり直したい、繰り返したい、と言う感情。悪いことで言うと、後悔を塗り替えしたい、と言う感情。

語源であるレコードで言うと、前者の意味合いなのかなと思う。何度も嬉しかったことを繰り返して、同じようになぞっていく。でもじゃあ、同じことを同じように経験したとして、それが一度目に勝るとは思えない。終わってしまうからこその煌めきや、新鮮だからこその色彩の強さみたいなものが必ずある。キューを置いてやり直したとて、記憶がぼやけて書き換えられるだけだ。だから、戻りたい、と思える過去を一つ持っているだけでいいのかな、と思う。

次に後者についてだけど、これはもう、ほんとによくある。私という人間は完璧主義者とまではいかないけど、こうしておけばよかった、と一日に両手を超えるくらいには考える。例えば書類を家に忘れたとき、上司へ言葉を返して変な顔をされたとき、友達への返しで笑いが取れなかったとき、自分のことを話しすぎてしまったとき、勉強をせずに寝てしまったとき。ミスをする自分に価値はないと感じて、やり直したい、と思うことがよくある。でも、好きなバンドが「失敗も後悔もしないように でもそれは果たして僕なんだろうか」と歌っていたから少し思い直して、あぁでもやっぱりやり直したいなと堂々巡りが始まる。

それこそ人はわかっていても悩んでしまう生き物で、結局答えなんかは出ないのだ。

 

だから、応えるとすれば

「キューを置きたい場所はたくさんあるけど、暫くはこのまま歩いてみるよ」

って感じです。

 

 

 

 

あと選択の話をたくさんしたけど、同じバンドの歌詞で「目の前の分かれ道の選択に悩みこそすれど、それを不正解と言ってしまう選択こそ最も不正解なのだ」と言う歌詞が凄く好き。一度人生を救われた。

今の私がどう歩くかで過去の私の選択をいくらでも正解にできる。正解と思える。

だからやっぱり暫くはこのまま歩いてみようと思います。

2021/05/26 #woofer887

2021/05/26に公開された7MEN侍の矢花黎さんの侍ふ。でブログなんか書いちゃったりなんかして!と言っていたので、調子に乗ってつらつら書いていこうかなと思った次第です。次の更新までに書き上がるといいな………(全然間に合わなかった)

 

 

では早速ほんへ↓↓↓↓

矢花さんのブログを読んでいて、私なりの考えを大まかに2つの議題に分けて話していきたいと思います。

 

  1. 言葉にすること、言葉は万能ではない
  2. 理想像と自己像に対するトラウマ

 

1.言葉にすること、言葉は万能ではない。

言葉にすること、伝えることは往々にして態度で示すより大切だとされる。でも私はそれが凄く苦手だ。だって気持ちは言葉にした時点で私の感情とは少なからず乖離してしまうから。

語彙力がある人ない人いるけれど、自身の感情を寸分の狂いなく言葉にできる人はいない。自分の感情に一番合っている言葉を探しているだけだ。

そしてそれを発すると、声色や句読点によってさらに言葉の色を、その意味を変えてしまう。

更に相手の受け取り方もそれぞれ違うし、そこから相手が自身の感受性によって噛み砕かれ摂取されれば、それはもう私の感情ではなく、私から発信された何か、になってしまう気がするのだ。

だから言葉は万能ではない。とは言え、じゃあ言葉にすることを諦めていいのかと言われるとそれもまた違う。

言葉にならなかった感情はいつか私の中で死んでいってしまうからだ。息を吸って吐くかのように生まれていく感情や思考が私の中で死んでいくのは些か悲しいことだし、なんかちょっと切ない。誰に聞いてもらうでもなく、こうやって言葉にすることで整理できることも冷静になることもある。

 

少し脱線するけど、なんとなく寂しい、とかどうしようもなく虚しい、みたいなときは自分の気持ちを言葉にすると良いと思う。でもそれはショートメッセージや通話みたいな素早いレスポンスが必要なツールじゃなくて、手紙とかブログみたいに発信するまでに時間を要するもので。感情的に発された自分の言葉や文章、その脈絡は数分後だとしても全く同じように思えないだろうから。自分が嫌になったときとかにやってみると良い。

 

話を戻して。

大切なのは相手に伝えることで、それは言葉だけじゃ不全である。言葉は万能じゃないし、自分の感情を100%伝えることは出来ないから、それを態度や雰囲気で補完する。

そうしてやっと言葉は私の言葉として誰かに浸透していくのだと思う。

 

 

 

 

2.理想像と自己像に対するトラウマ

理想像と自己像が乖離していく状態について、"トラウマ"と言う言葉を使っていたのが面白いなと思った。それは表に出る人だから余計にそう感じるのかな。トラウマだと受け入れるなら、彼はすでに傷を負っていることになる。でもこの乖離はこれからなくしているものだと思うから、もっとしっくりくる表現があったのではなかろうか。

私個人が乖離に対して抱く感情は恐怖、と表すのが一番近い。そして一種の承認欲求だとも思っている。

承認欲求はここ数年、「可愛いと思われたい」とか「充実していると思われたい」と言うプラスの意味で使われがちだけど、これはマイナスの意味でも使われるべき言葉なんじゃないかな。

私は私を、なるべく私のまま知ってほしい。その承認欲求はマイナスの面で働きがちだ。自分が出来ないことを出来ないと認識してほしい、つまり過大評価や期待に対しての承認欲求で、他人からの理想像と自己像に抱く乖離である。自分のような何かが独り歩きしているような感覚はきっと誰にでもあって、だから私は理想像と自己像の違いが怖いなと思う。

あとは例えば他人に詮索されたり勝手に納得されるのも苦手だ。有給を取ったとき、本当は推しのライブに行くのに恋人とのデートだと思われたりとか、そう言うのは恐怖ではなく嫌悪感が沸く。だから聞かれてないことまで答えてしまって、ああまた喋りすぎたと一人になって落ち込んだりする。でもそれが私で、これからもその根底は変わらないと思うので気長に付き合っていくしかない。

ただ一つ思ったのだけど、それぞれのコミュニティで見せる面が違うことは、あるコミュニティの他人からの理想像とある他人からの理想像との乖離なのではないだろうか。そこのズレは意図せず起こったものじゃなくて自分が選択していることだと思う。職場には職場の、趣味には趣味の、家には家の、それぞれのコミュニティに見せる面、見せたい面があって、それを自分で選択している。そして恐らく、その全てを合わせてやっと自分になるのだ。一面しか見ていないのだから自己像と乖離が生まれるのは当たり前なんじゃないかな、とも思う。

これから全部の面をネットに流すか、選択した面を見せ続けるかは本人の自由だけどね。どちらが良いとかどちらが楽とかはないと思うので。

 

 

言いたいことは以上です、ここまで読んでくださった方ありがとうございました!